「中国黄土高原 紅棗(なつめ)がみのる村から」写 真展

7月3日(火)〜30日(月)
9:00〜19:00
入場料:無料
http://www.natsume2007.jp/index.html

ギャラリーウオーク
(共同通信社本社ビル 汐留メディアタワー3F)

棗(なつめ)がみのる村から”写 真展に寄せて
 2003年10月、偶然訪れた黄土高原の小さな村は、“三光作戦”の村であり、私が戦後初めてやってきた日本人でした。おもえばそのとき出会ったひとりの老婦人から、「どこから来たの?」と問われたことが、私の長い旅の始まりになったのです。

 「日本から来ました」という答えを聞いたとたん、彼女の顔はみるみる憤怒の色に染まり、唇から激しい言葉がほとばしり出たのです。そのときの私は、ただうつむいて彼女の話に耳を傾けるしかありませんでした。

 翌年8月、私の話に関心を示してくれた9人の学生たちと共にその村を再訪し、私たちは84歳になる陳老人から聞き取りを行いました。盲目の老人は、日本人に母を生きたまま焼かれた過去を、その焼かれたベッドの傍らで、静かに語り出しました。

 彼の口からは一度として激しい言葉が発せられることはなく、遠い記憶を静かに手繰り寄せ、自らかみ締めるような口ぶりでした。そして最後に、60数年ぶりの日本人の来訪をどう思うかという私たちの問いに、一呼吸おいた後、「感動した。ほんとうに遠いところをよく来てくれた」「今日聞いたことを、日本に帰ったらみんなに伝えて欲しい」と応えたのです。
 過酷な自然環境と社会条件の下に、今も貧困と向き合わねばならない村人たち。政治の言葉で語られる謝罪や補償とは無縁に、過去の記憶を抱いたまま残り少ない生を生きる老人たち。私は彼らが60数年もの長い間、“私たち”がやってくるのを待っていたのだと思いました。そして同時にこれ以上は待てないこと、つまり証言者たちがどんどん亡くなっていくという現実を目の前にしたとき、私は待たれていたことへの責任を、自分なりに果 たしたいと考えたのです。2005年6月、北京を引き払って、私はひとり“ 紅棗(なつめ) がみのる村”に転居しました。

 あれから2年、“国家級貧困地区”に指定されている小さな村で、私は村人たちと生活を共にしながら、老人たちの記憶を聞き取っています。村人たちにとって私は単なる一日本人ではなく、名前も個性もあるひとりの人間であり、彼らが私のカメラの前で見せてくれる表情は、まぎれもなく2006年、2007年の今日の顔です。

 だからこそ、老人たちの磐石な記憶を削除したり変更することは不可能であると同時に、私たちが出会った今現在、私たちの間に新しい記憶の糸を紡ぎ始めることは可能ではないか?今回の写 真展は、いわば私の旅の“中間報告”であり、老人たちの表情から、私の考える“現在進行形の記憶”の端緒を読み取っていただければと願っています。

2007年7月1日
大野 のり子